闘病は団体総力戦
夕方、今日の夜勤担当のAさんが走って私の病室に入って来られた。
「どうしたのだろう?」
緊急搬送されて以降は、点滴と共に心電図を常につけている
「心電図の波長が嫌な感じだったので走って確認に来ました」とAさんは言ってくれた。
そのあと、主治医のI先生、調剤担当のMさん、がそれぞれ現状辛い事などないかの確認や今後の方針について説明に来てくれた。
意識を失った時に懸命に蘇生してくれたスタッフ。日々、まめに点検に来てくれる看護師さんたち。
本当に自分事のようにプライドを掛けて治療にあたってくれているプロの方がこの病院には多いと思う。
お見舞い面会再開
実は本日から個室のみではあるが、お見舞い面会が可能になったのです。
コロナ禍以降なので、実にお見舞い面会は3年ぶりの再会との事。
2類から5類に変更されるのはまだ先なのですが、こちらの病院はいち早く面会再開に踏み切ったようで。
親父殿とパートナーがそれぞれ面会に来てくれた。
私は実は35歳の時、前職の外資系生命保険会社に転職するタイミングで実家に帰って親とまた一緒に暮らすということを選択しました。
これは自分の考えというより、当時の上司の勧めに従ったからだ。
外資系生命保険会社に採用が決まった際に、直属の上司が一緒に私の実家を訪問した。
恐ろしく離職率の高い生命保険業界においてだからこそ「自分が責任を持ってNekoさんを一人前に育てる」という決意表明と覚悟を私の両親に伝えに上司は訪問したのです。
そして上司が私の両親にお願いしたのが「しばらくまたこのご実家でNekoさんと一緒に暮らしてあげてください」との事だった。
理由は「フルコミッションという本当に厳しい世界なので、家族の支えや協力が必要なこと」「そして両親もそこそこの年齢。一緒にいられる時間をできるだけ共有しておいてほしい」との事だった。
そんなこんなで、35歳にしてまた両親と生活する日々が始まった。
そしてこの時間は今思うと本当にかけがえのない貴重な時間となった。一緒にいると近すぎてイライラすることの方が多かったけど・・・。でも親と一緒にいられる時間をこの時に過ごせていて良かったと思う。
一緒に暮らしていた時に比べるとかなり父親も弱くなった。そんな中、わざわざ足を運んでもらって有難いことだ。
現在のパートナーは、私が一番辛い時から苦労を分かち合ってくれた人だ。
今でこそ少しは生活も楽になったが、それこそ仕事が上手くいかずに悔しくて涙を流した時代に支えてくれた糟糠の妻という言葉が相応しい存在だ。
そして現在の職場の仲間、取引先、ビジネスパートナーなどが私の帰りを待って居場所をとっていてくれる。
今回の闘病を心から応援してくれ温かいメッセージをくれる友人やお客様達。
もし今回の闘病に負けたら、この支えてくれている人たち、そして真剣に携わってくれている医療スタッフの人たちを裏切ることになる。
蘇生措置を受けている時に心のどこかで「辛い、もう駄目だ・・」と思っていた。その位苦しかった。
無意識の時に本音の心の弱さが出たのだろう。
でも今はそんな弱気になった自分を恥じている。
もはや今回の治療は自分一人の問題などではないと改めて思った。
意地でもこの戦いに勝つ。心の在りようで負けてはならない。
闘病は団体総合戦。みんなを負け組にはさせない。
コメント